「とりあえず夕方にカテーテルやるから。そのつもりでいて。」
そう言うと狸顔はあっさり帰ってしまった。
仕方ないので、携帯をいじる。
ICUは携帯が使えないので、ほぼ1週間ぶりの携帯だった。
やることといえばTwitterくらいなのだが。
こういう時の時間はすぐ過ぎるもので、たちまち夕方になった。
「はい、では準備ができたので移動します。」
二回目の治療室である。
前回と同じようにブルーシートがかけられ、麻酔をされる。
「では始めます。」
これも前回同様まどろみながら治療は進む。
突然、痛みで頭が覚醒する。
前回の手術ではなかった痛みだ。
時計を見ると治療開始から3時間ほど経っていた。
「先生、だいぶ痛いんですけど、あとどのくらいで終わりますか?」
たまらず僕は狸顔の医者に尋ねる。
「うーん、30分くらいかな。」
30分!耐えられる気がしない。
「先生、痛くて30分も耐えられる気がしません。」
率直な感想をぶつける。
「大丈夫あとちょっとだから。」
――― 5分後
「先生、あとどのくらいですか?」ほんとに限界だったのだ。
「うーん、あとちょっとかな。」
「ちょっとってどのくらいですか?」
「ちょっとはちょっとだよ。」
おい、狸顔、ぼかして逃げるんじゃねぇ。
こっちはほんとに痛いんだよ。
「ほんとにちょっとだから頑張って。」
こういう時は時間はほんとに進まない。魔法でもかかっているんだろうか。
相対性理論の研究の必要性を痛感する。
「終わりです。お疲れ様。」
そんなことを考えていたら、手術は終わった。
あぁ、ほんとにあとちょっとだったのね。
助かった。
しかし、前回以上に痛みがある。
個室に戻ると、一層痛みは増してくる。
時間はすっかり夜になり、消灯時刻になっていた。
「では、かなり強い痛み止め入れますね。これで楽になると思いますよ。」
点滴のところに薬をセットしながら看護師さんが言う。
1時間後。
気持ち悪い。吐き気がする。慌ててナースコールをする。
「どうされました?」
「気持ち悪くて。吐きそうです。」
「大丈夫ですか。薬の量少し減らしますね。」
「はい」
そのまた一時間後。
「痛い!痛い!痛い!」
叫びながらナースコールボタンを連打する。もちろん連打したところで意味は無いのだが、そうせざるを得ないほどの痛みだった。
「どうされました?」
「痛いです!」
「強い薬を使っているので、追加でお薬を出すことはできないんですよ。なんで、痛みがさらに増したら呼んでください。」
そのまた1時間後。看護師がやってきた。
「Tomyさん、時間が経ったので、追加で痛み止めできますけど、どうしますか?」
「お願いします。」それしかないだろう。人生で一番痛いかもしれない。
「副作用で気持ち悪くなったりするかもしれないこと、わかってます?」
「わかってます。わかってます。」信用無いな。
「わかってないでしょ!」突然看護師が叫ぶ。
え?は?
いま、僕怒鳴られた?なんで?
状況が理解できない。
「ほんとにわかってます。気持ち悪さは今ほとんど無くなっているんでほんとに大丈夫です。」焦りながら答える。
「ごめんなさい。責める気持ちで言ったわけではないの。痛み止めセットしますね。」
今なら何となく、想像できる。一時間おきに、やれ気持ちが悪いから薬を減らせだの、痛いから薬を増やせだの言ってくる患者だ。夜勤の看護師さんの疲労もピークだったのかもしれない。実際、一回も座れない夜勤の日もある、と他の看護師さんも言っていた。「ほんとに分かってんのかこいつ」って思う気持ちも、強めに言って聞かせたくなる気持ちも、今なら何となくわかる。
けど、僕の方もいっぱいいっぱいだったのだ。ここ数日、熟睡なんて一度もできていなかった。そしてこの日は信じられないほど、痛かったのだ。信じられないほど、気持ち悪かったのだ。薬のせいか、それともいろいろのストレスのせいか、情緒不安定だったのだ。
今なら申し訳ないと思うけど、看護師さんの気持ちを考えるほど僕に余裕はなかった。
痛み止めが効いたのかそのあとはゆっくりと寝ることができた。
・26日
「おはようございます。昨日の晩はどうでした?」
昨日の夜とは違う看護師さんが訪ねてくる。
「少し寝られましたが、看護師に怒鳴られました。」
昨晩の一件をまだ根に持っていたので、ベテランっぽいこの看護師に言いつけてやろう思った。
「なんで?なにがあったの?」
昨晩のことを話すと、そのベテランっぽい看護師は、
「あー、昨日の夜勤は田中さんかー。あの人パニックになりやすいんだよねー。だから許してあげて。」
仕方ない。そう言われたら許すしかない。
そのくらいには僕の情緒も安定するようになっていた。
「今日からリハビリが始まります。リハビリは11時にこの部屋でするから。で、今日尿管を抜こう。」ベテランっぽい看護師が言う。
「わかりました。」
入れる時あれだけ痛かったんだから、抜くときも痛いんだろうな。
その瞬間を想像するとちょっとだけ憂鬱になった。
リハビリの時間になる。
「どうも、理学療法士の佐藤です。よろしく。」
小太りなおじさんが部屋に入ると同時に言う。
「今日のリハビリは立つことです。」
そう、僕は入院してから立つことはおろか、座ることすらしていない。
ひたすら横になっていた。
「では右手を使いながら…」
説明通り体を動かす。
何とか立つことができた。
今では考えられないが、説明されて、その通りに体を動かさないと体を起こすことができなくなっていたのだ。体の動かし方を忘れるスピードは思っているよりも早い。
久しぶりに立つと、全身の血液が逆流しているような感覚がした。
気持ちが悪い。
「では、今日のリハビリはこれで終わりです。明日歩こうと思います。」
無理だ。
できる気がしない。
ベッドに戻ると、先ほどのベテランっぽい看護師が来た。
「じゃあ、立てたことだし、尿管抜いちゃおうか。」
「抜きますー。」
「あっあっ、ンンッ、いてっ。」やはり痛い。
「やっぱり痛いの?」ベテランっぽい看護師が聞いてくる。
痛いに決まってるだろう。
なんでちょっとだけ嬉しそうな顔してるんだ。
「あ、まあ、痛いです。」
というかよくそんなデリケートな質問ズケズケと聞けるな。看護師はすごい
「そっかー。まあ、これからはトイレでできるから。じゃ、ゆっくりしていて。」
その後は食欲もなくベッドゆっくりと過ごした。ずっと血液が逆流してる気がした。
もちろん夜は痛くて叫んだ。夜になると痛くなるのは何でだろう。不思議だ。
・27日
「今日は酸素の管を抜きましょう。リハビリは歩きます。それと髪を洗いましょう。」
これはうれしい。髪の毛を洗えることだ。
髪の毛は落車した前日から洗っていないので、テカテカして、きしんでいる。
「じゃあ、まずは髪の毛を洗いに行きましょう。」
院内を移動して洗面台のある部屋へと向かった。こんなものまであるんだ、とちょっと驚いた。
床屋にあるような洗髪台で髪を洗った。
気持ちがいい。
リハビリの時間にまたなる。
「どうも佐藤です。調子はどう?」
「悪くはないです。」
「では、歩いてみましょうか。」
昨日のように立ち上がる。
昨日、リハビリの後に何回かトイレに行ったおかげか少しスムーズだ。
トイレは部屋に併設されていたので、立ってペンギンのようによちよち歩き、何かにつかまればすぐにたどり着けるようになっていた。つまり、トイレに行ったといってもほとんど歩いていない。
「手すりにつかまりながら行きましょう。」
歩き始めると、語句の体に異変が起きた。
ゲップが止まらないのだ。
炭酸を飲んで「げふー」となるのが5回連続で襲ってきたりするのだ。
全然進まない。
「大丈夫。吐きそう?」
「いや大丈夫です。」
フロアを一周してその日のリハビリは終わった。
「ゲップが止まらないのは何でですか?」回診に来た狸顔の医者に聞いてみる。
「それはね、腸が動いていないから、体の空気がおならとして出ないから、ゲップとして出てきてるんだよね。」
なるほど。
「じゃあ、どうやったら腸は動きますか?」
「運動だね。とにかく歩くこと。」
「わかりました。頑張ります。」
ださいもんだ。
おもな症状はおならが出なくてゲップで苦しい、という状況は。
まったくもって情けない。しっかり歩こうと心に誓った。
その日の夜。ゲップは止まる様子もなく、そしておなかの張りが苦しい。そして気持ち悪い。まったく寝られなかった。
・28日
結局一睡もできず、朝日が昇る。
街がオレンジ色に染められていくのを見る。
きれいだ。朝日ってこんなにきれいだったのか。
ゲップをしながら眺める。
朝になり、看護師が来た。
「今日はシャワーに行きましょう。ひとりで行けそう?」
「大丈夫です。」
最後に体を洗ったのは事故前日の18日。
実に10日ぶりに体を洗う。
シャワー室は僕のいる個室から近かった。
「さ、寒い。」
空調の効いた病院である。まだ9月だというのに脱衣所で服を脱ぐのも寒い。脱衣所のヒーターの電源をつける。つかない。なんだ、壊れているのか。使えないな。シャワーのある部屋に入る。
「ぐぉぉー」
換気扇が勢い良く回っていて寒い。「どこに行っても寒いじゃねえか。」悪態をつきながら体を洗う。風邪をひきそうになりながら、部屋に戻る。ベッドはいつだって暖かい。ベッド大好き。
その後は、ゲップをしながら、フロアを散歩して時間を過ごした。
しっかり歩かないと、腸が動かない。つまり、げっぷは止まらない。
頑張らねば。
夜はやはりほとんど寝られず、午前3時ごろに浅い眠りについた。
つづく。
(物語中の名前は全て仮名です)
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